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福岡高等裁判所 昭和47年(う)127号 判決 1972年11月13日

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人藤原千尋提出の控訴趣意書に記載のとおりであるから、これを引用する。

同控訴趣意について。

所論は、要するに、被告人には原判示のような過失はなく、本件事故は、被害者が自動二輪車の運転を誤り、被告人車の左側方に追突した被害者の一方的過失によつて発生したものであるから、被告人に過失ありとして業務上過失致死罪の成立を認めた原判決は、事実を誤認し、ひいては法令の適用を誤つた違法がある、というのである。

そこで、本件および原裁判所において取調べた証拠を調査し、当審における事実取調べの結果をも参酌して考察するに、所論のとおり、本件事故につき、被告人に原判示のような過失を認めることができない。

原判決は、被告人の過失行為として、被告人は大型貨物自動車を運転して時速約四〇キロメートルで進行し、前方道路上を時速約三〇キロメートルで同一方向に進行中の田中元喜運転の自動二輪車を追い越そうとするにあたり「右田中がつんぼかと思われるほど警笛に無頓着で、かつ終始下を向いて運転しており、追越し車のあることに気付いている風がなく、また徐々に中央寄りに近づくような様子であつたので、このような場合に追越しをしようとする自動車運転者としては、被追越車の運転者の動静、その運転態度、進行方向を注視し、接近・接触・転倒などの公算を予測警戒し、速度を調節し、あるいはこれと十分な間隔を保ち、あるいは危険切迫時には直ちに急停車できるように操車する等、被追越車との接触事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるところ、被告人はこれを怠り、右田中の異常な動静に気付かず、これを注視せず、危険発生の公算を予測せず、漫然時速四〇キロメートルの速度で、田中車と間隔約一メートルをおいたのみで、その右側を追越そうとしたため、自車左側を同人に接触させ、転倒した同人を左後車輪で轢き、同人を即死させた。」旨判示しているのであるが、右証拠によれば、次の事実が認められる。

すなわち、本件事故現場は、国道二〇七号線上に設けられた歩車道の区別がない幅員一一、〇五メートルの土園川橋上であつて、被告人車の進行してきた同橋東側小長井町方面の道路の幅員は七、六メートル位であつて、同橋の付近から幅員が広くなつており、右道路は右橋の部分が若干高くなつてはいるが、見通しは良く、車両の交通量は頻繁であり、なお同橋の両端には、川に副つて斜走する幅員五ないし七メートルの堤防道路が右二〇七号線とそれぞれ交差していること、そして被告人は、本件当日の午前一〇時三五分ころ、大型貨物自動車(車長九、八〇メートル、車幅二、四七メートル、積荷九、九八〇キログラム)を運転して時速約四〇キロメートルで右国道二〇七号線を西進し、右土園川橋の右土園川橋の東方約九〇メートルの地点で、前方約二六、五メートルの道路左側を時速約三〇キロメートルで同一方向に進行中の田中元喜運転の自動二輪車を認め、同橋の約四一メートル東方に達した際、右田中車を追越すべく、自車の前方約7.9メートル、道路の中央線から約一、九メートル左側を進行していた右田中車に対し、警笛を二回吹鳴して追越しの合図をし、右田中車が進路をやや左寄りにとつた程度で避譲せず、なお前記速度で直進していたが、対向車等もなかつたところから自車の進路をやや右寄りにとつて追越しを開始し、同橋の東端から西方約六、二五メートルの同橋上で右田中車と並んだが、その際の自車と右田中車との間隔は約一メートルであつて、自車は車体の三分の一位が中央線を越えており、一方田中車は中央線の約二、六メートル左方に位置し、同車から道路左端までは約三メートルの余裕があつたこと、そして被告人は、そのまま進行しても安全に追越しうるものと思い、以後右田中車の動静を注視せずにそのまま追越しを続けていたところ、右田中車が被告人車に接近し始め、同所から約一四メートル余進行した道路左端から約四メートル内側の地点で右田中が被告人車の左側面に接触、転倒し、被告人車の左側後部車輪で轢かれ、即死するに至つたこと、およびこれより先、右田人は終始うつ向きの姿勢で自動二輪車を運転しており、被告人が警笛を吹鳴した後も前述のとおり避譲せず、進路を道路の中心線からみてやや左寄りにとつたのみで直進を続けていたが(但し、土園川橋上は前述のとおり道路の幅員が広くなつているので、相対的には道路の中央寄りに進行したことになる。)、しかし時速約三〇キロメートルの比較的安定した速度で進行し、その運転自体には不安定な挙止はなく、進路を右に転ずるような素振りもなかつたことが認められ、司法警察員池田猛作成の昭和四五年三月一六日付実況見分調書、原裁判所ならびに当審における受命裁判官の各検証調書、被告人の司法警察員ならびに検察官に対する各供調書および被告人の原審公判廷における指示、供述中右認定に反する部分は、司法警察員丸田正徳作成の同年三月二三日付実況見分調書等と対比したやすく信用し難く、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

しかして、右のように自動車運転者が先行する自動自動二輪車を追越そうとする場合、原判示のような注意義務があることは明らかであるが、しかし被告人が田中車を発見してから同車と並進するまでの間の同車の動静は、前叙のとおり単にうつ向きの姿勢で運転し、被告人が警笛を吹鳴しても左方に避譲しなかつたというだけであつて、当時道路右側には対向車その他被告人車の追越しを妨げるものがなかつたので、右田中車を避譲させなければこれを追越しえないような状況にもなく、田中車は道路の中央線からみれば、むしろ進路をやや左寄りにとりつつ時速約三〇キロメートルという自動二輪車としては比較的安定した状態で直進し、その運転に不安定な挙止もなく、進路を右に転ずるようなきざしもなかつたことは前叙のとおりであり、且つ本件道路は車両の交通量が多い道路であるから、追越しもしばしば行なわれる道路であつたと推測されるので、このような状況のもとにおいては、前述のとおり追越車が大型車であるにせよ、時速四〇キロメートル程度の速度で、被追越車である田中運転の自動二輪車との間に約一メートルの間隔を保ち、且つ同車の左方には約三メートルもの余地を残した状態で追越すことは、現下の輻輳した交通事情に照らしても、交通の安全を害するものとは考え難く、したがつて、被告人が本件追越しにあたり、原判示のように速度を調節し、被追越車との間に十分な間隔を保つべき注意義務に違反したものとは認め難い。もつとも、大型車で追越すにあたり、被追越車との間に一メートル位の間隔をおいただけでは、自動二輪車のような車種の場合、その運転者によつては狼狽し、接触、転倒等の危険を招く虞れが絶対にないとはいい難く、本件においてもその疑いがあるが、自動二輪車は自転車と異り免許を要する車種であつて、その運転者は運転に習熟していることが予定されているのであるから、現下の輻輳した交通事情に照らし、この程度の危険の回避は、むしろ追越しをされる側において負担すべきものと解すべきである。

ところで、前記証拠によれば、被告人は、前記田中がうつ向きの姿勢で運転していたことを供述しておらず、また自車と右田中車との間隔についての供述、指示も区々であつて、このような点からみて右田中車と並進する前においても、同車の動静についての注視が必らずしも十分でなかつたことが窺われるのであるが、右田中車の運転状況に前叙のとおり客観的にも同車が被告人車と並進後にとつた異常な接近行為を予め予測させるような状況があつたとはいい難いものである以上、たとえ被告人が右田中車の動静に対する注視を十分していたとしても、果して本件事故発生の結果を予測し得たものとはいい難いので、被告人のこの点の注視が不十分であつたことによる注意義務の懈怠は本件事故の発生に対し因果関係を有しないものというべく、また司法警察員脇浜政之外二名作成の同年三月一四日付実況見分調書によれば、被告人において、右田中車と並んだ後も、自車の左側バックミラーによつて右田中車を注視していたならば、同車が自車に接近しつつあることを発見することは必らずしも困難でなかつたことが窺われるが、被告人が当時右のような措置をとつていたとしても、被告人車は前叙のとおり重量物を積載した車長九、八〇メートルの大型貨物自動車であつて、且つ時速約四〇キロメートルで進行していたのであるから、右田中車の接近を認めて直ちに急制動をかけ、あるいはハンドルを右に転把したとしても、被告人車の空走距離、および制動距離等からみて、右田中車と並んでから同人と接触した約一四メートル余の間に(右田中車の接近し始めてからの距離はこれよりも更に短いわけである。)自車を停車させ、あるいは自車の進路を変更して右田中との接触を回避することは不可能であつたことが窺われるので、被告人が右田中車と並んだ以後同車の動静を注視しなかつたことをもつて、本件事故の発生に因果関係のある過失があるとみることもできない。

以上要するに、原判決が被告人の過失として判示するところは、すべて過失とはいいえないももであるか、ないしは本件事故の発生に対し因果関係を有しないものというべきである。

なお検察官は、予備的訴因の追加請求と題する書面において、本件事故現場の道路は、土園川橋付近において道路の幅員が広くなつており、また同橋の両端にはそれぞれ南北に道路が交差していたのであるから、幅員の狭い道路から広い道路に進出した右田中車が道路の中央寄りに進出してくること、あるいは交差点で自車の前方を右折してくること、あるいは被告人車のような大型車が後方から進行してくる場合、田中車のような自動二輪車は往々これに吸引されたり、ハンドルをふらつかせたりすることも予想されるので、被告人としては、継続して警笛を鳴らして自車の進行を知らしめて右田中の注意を喚起し、同車を左方の安全な場所に避譲させる等の注意義務があつた旨主張し、本件事故現場付近の道路の状況が右主張のような状況であつたことは前叙のとおりであるが、しかし被告人車が右田中車と並ぶまでの間に、右田中車に不安定な運転状況あるいは右折するようなきざしがなかつたこと、当時対向車両等がなく、右田中車を左側に避譲させなくても、その右方から同車を十分追越しうる状況にあつたこと、および被告人車は時速約四〇キロメートル程度の速度で、右田中車との間に約一メートルの間隔を保ち、且つ同車の左側には約三メートルもの余地のある状態で追越しを始めていたことは前叙のとおりであるから、検察官主張のように、右田中車が被告人車の進路に進出したり、あるいは被告人車に吸引されるような事態が予測されるような状況であつたとは認め難く、また大型車の接近によつて右田中車のような自動二輪車の運転者が狼狽し、接近接触する虞は全くないとはいい難いが、しかしかかる程度の危険の回避は、むしろ被追越車において負担すべきものと解すべきことも前叙のとおりであつて、要するに本件においては、現場の状況、被告人車と右田中車との位置関係、および右田中車の動静からみて、同車を追越すのに特に危険の予測される状況にあつたとは認め難いのであるから、追越しの場合における警音器の吹鳴義務を規定せず、むしろ車両の運転者は法令の規定により警音器を鳴らさなければならないこととされている場合を除き警音器を鳴らしてはならない、ただし危険を防止するためやむを得ないときはこの限りでない旨規定している現行道路交通法の規定の趣旨に徴しても、被告人において更に継続的に警音器を吹鳴すべき注意義務があつたとは認め難く、また前記の諸事情および本件道路の交通量に徴し、被告人に右田中車を更に左方に避譲させた後追越しにかかるべき注意義務があつたものとも認められない。結局本件事故は、被告人において警音器を二回吹鳴し、現場は見通しのよい道路であつて、昼間であり、右田中車にはバックミラーもついているのであるから、右田中としては、後方から被告人車が接近してくることに当然気がつかなければならないはずであり、且つ自車の右側を追越す被告人車との間に約一メートル、自車の左側に約三メートルという相当な余裕、間隔があつたのであるから、その間を進行しさえすれば被告人車と接触する等の危険を生ずる虞もなかつたのにもかかわらず、自車の操車を誤つて被告人車に接触した同人の一方的過失によつて発生したものというべきである。

したがつて、被告人に前記過失を認めた原判決は、事実を誤認し、その結果法令の適用を誤つた違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかであるから、破棄を免れない。論旨は理由がある。

そこで、刑事訴訟法第三九七条第一項に則り原判決を破棄し、同法第四〇〇条但書に従い自判する。

本件公訴事実の要旨は「被告人は、自動車運転の業務に従事するものであるが、昭和四五年三月一四日午前一〇時三五分ころ、大型貨物自動車に飼料約九、九八〇キログラムを積載し、これを運転し、諫早市八天町五一番地先土園川橋付近道路を時速約四〇キロメートルで小長井町方向から本諫早駅方向に向け進行中、進路左前方約二六、五メートルの地点を同じ方向に向け進行中の自動二輪車を運転する田中元喜(当四五年)を認め、同人を右側から追越そうとしたが、このような場合、継続して警笛を鳴らして同人を安全な場所に避譲させ、あるいは同人の動静を注視警戒して十分な間隔を保ち、進路の安全を確認してその右側を進行し、もつて接触事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのにもかかわらず、不注意にも形式的に警笛を鳴らしたのみで安全を確認せず、至近間隔を保つたのみで漫然追越しを開始した過失により、自車左測を同人に衝突転倒させた後、左後車輪で轢き、よつて頭蓋粉砕開放骨折脳随脱出等により即死するに至らせた。」というのであり、また予備的訴因の追加請求と題する書面の要旨は、被告人が前記のように大型貨物自動車を運転して前記田中車を追越すに際し、本件事故現場の道路は、「前記土園川橋付近から道路の幅員が広くなつており、橋の東側は南北に通ずる道路があり、且つ橋を過ぎた西側にも南北に通ずる道路があり、橋の両端は所謂交差点ともなつておつたので、幅員の狭い道路から広い道路に進出した場合、右田中車も従来の進路を道路中央寄りに出てくることも、大型車が後方より進行してきた場合、自動二輪車は往々吸引されたり、ハンドルをふらつかせて自車の進路に寄つてくることも、交差点において自車の前方を右折してくることも予想されるので、このような場合に備えて、継続して警笛を鳴らして自車の進行を知らしめて同人の注意を喚起し、左側の安全な場所に避譲させ、あるいは同人の動静を十分注視警戒すると共に、速度を調節して同車と十分な横の間隔を保ち、進路の安全を確認してその右側を進行するは勿論、万一自車に寄つてくるのを認めたときは、ハンドル、ブレーキを的確に操作し、もつて接触事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるにもかかわらず、不注意にもこれを怠り、形式的に警笛を鳴らしたのみで、同人の動静並びに安全を確認せず、僅か八〇センチメートルないし一メートルの横の間隔を保つたのみで、漫然追越そうとした過失により、同橋の西端より約二メートルの地点に達した際、同車が自車に寄つてきているのに気付かず、自車左側を同人に衝突転倒させた後、左後輪で轢き、よつて同人を即死させた」というのであるが、前記説示のとおり、被告人に検察官主張のような本件事故の発生に因果関係のある過失は認められず、本件公訴事実については犯罪の証明がないから、刑事訴訟法第三三六条に則り被告人に対し無罪の言渡をすることとする。

よつて、主文のとおり判決する。

(木下春雄 松本敏男 吉田修)

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